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明治五年創業の幸次郎、富五郎が築いたバッグ業界の長谷川の家に四代目として生まれる。当時は極端に体は弱く、戦時中とは申せ、明治の衛生兵で有った祖父のお陰で沢山の医療機関に見てもらったが診断はとても成長は無理との事、7歳まで持てばベストと言われていた。
栃木市に疎開、栃木で当時は子供の罹患率と死亡率の高かった疫痢に
罹り死線を数ヶ月さまよい、ようやく生還、現在66歳となる、生命の不思議な
力に畏敬の念を持ち、感謝をして生きてきた。まさに生かされて居るのだとの
言葉が腑に落ちる。第二の人生が60年以上あるんだ。
疎開先から、母と四人兄弟姉妹東京浅草小島町の実家に戻る。1947年ごろから、復興期の多忙状態であったバッグ卸業の店の手伝い開始、値札つけ、箱つめ
x中学時代から、新年は三元日、会社関係得意先,生産工房年職人の年始周り
が始まる。おかげで,都内の道は覚えたーエー、娘も親父に似て道はよく覚いて今の仕事に大活用してるよ。
青山学院大学教育学科卒業後、産能能率短期大が二年に編入、学生、職員、
夜警の三役を二年間つとめた。夜警は一週間に4回やったこともある。そうそう、(1962年,尊敬していた祖父五郎が12月10日死去)、
この二年体がよく持ったね〜。
この年の三元日初めて服喪中おはいえ、ゆっくり休みました。商人はこんなものだった。三月新宿伊勢丹に問屋界初の研修生として、売り場実践研修、,
予定二年を株ハセガワの都合で短縮、一年で終了。とても、よい経験でした。
実家の株ハセガワに正式入社。初めて正社員になりました。
嫁さんをもらう。時期尚早にも、友人のアドバイスで父は副社長に就消させる。
他流試合で培った経営感と途中からの経営に入った父の考えの違いから、退任。
東京卸売りセンター問屋連合会事務局長に就任,7年間勤務、他産業の会社を
応援する団体で新聞を発行したり、共同活用のサービス提供やコンサルタント
の役目をしたりして,経営の最前線の検分を深めた。品川区西五反田です。
沢山の思い出を有難うの時期です。
五郎の精神希薄になり、社員の不祥事の建て直しをたてに、再入社を余儀なくされ、創業110年に向かって1981年から記念企画を采配
再度、株ハセガワから離れ、初めて好きな映像の世界に関係してビデオ業界にて事業を立ち上げる。このとき,開店した早々,阪神球団が久々の優勝。幸先よし、
三号店開店準備に入るまでに成る。この間レーザーデイスクのレンタル解禁要望の件で大会社P社とやり取りは面白かった。
時代の変化に自信を失った父の強い要求で三度,実家の事業に戻される。
既成の商品にこだわる社風に今後の発展を見込めず、改革路線を企図するも残念だがこの路線の実現はできず。袂を分かち、パーソナル・マーケットをメイン
とする方向に転換、今日に至る。ハンドバッグ大好き人間を自認している男。
昔からの知り合いの業界人と布地に塩ビを貼りつけるとゆう難問に挑戦、なかな
か困難な道でありました。
ようやく満足の行くコーテイングが完成、特許申請、類似の技法はあるが手間隙か
けてつくり込むシステムが完成,今日に至る。
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